新田クリニック 院長 新田長生コラム

医療法人社団 健成会
新田クリニックの院長 新田長生(整形外科医)
大平山不動寺住職 新田光照 のコラム。
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親と子の人間学
 つい先頃年頭のご挨拶をしたと思っていましたら、2007年もあっという間に上半期が終わろうとしております。夏服に衣替えもし、初夏の青空が心晴れやかな優しい気分にしてくれています。しかし、一方では連日のように子が親を殺してしまうニュースが後を絶たず、しかもバラバラにしてしまうなどその残虐さには身の毛がよだつほどの恐ろしさをおぼえます。
 最近の親と子の人間関係はどうなっているのでしょう。そして今後どうなっていくのでしょうか? 日本の家族制度が崩壊し、以後それに伴う高齢者介護、鍵っ子、家族を捨てネットカフェで寝泊まりする父親までも出る始末、その他にも数々の弊害が出てきて、家族関係のあり方が今まさに問われているように思えます。
 いつの時代も親が親であり続けるわけではなく、子が子で居続けるわけでもありません。はじめは誰もが子供であり、その子供がたった数十年で誰もが親になるのです。時代が変われどもこの連鎖は変わりなく現代まで続いているのです。第二次世界大戦前の我が国では、子殺し・親殺しといったような常識では考えられないような尊属殺人はみられませんでした。ではなにが変わったのでしょうか。社会構造?経済不安?教育方針の変遷?・・・・・・?
 時代がどんなに激しく移り変わったとしても、産まれた子供が母親を慕い求める慕情には変わりありません。子供が成長する過程において、母親の愛情と保護とに包まれていることが必要ですし、その子の一生の人格形成の基礎になるものは父親の人間的な厳しい知性も必要だと思います。しかし、この頃では厳父・慈母というイメージはだいぶ変わってきているのは事実です。威厳のない父親・母性喪失者の母が増えているのではないでしょうか。
 仏教の経典に「仏説父母恩重経(ぶっせつぶもおんじゅうきょう)」というものがございます。この経典は大乗仏典の一つで、中国で先述されたものです。ここでいう仏とは「お釈迦様」であり、その弟子である「阿難」に対して、父母の恩の重さを説き、子供がその恩に報いることの大切さを説いたものです。この教典の中に人間の親子関係で 時が変われども変わらぬ真実の愛情を見いだせると私は思います。悲惨な親子間での殺人や人間性を微塵も感じられないような犯罪の消滅を祈りつつ、一父親としても改めて勉強する意味でしばらくの間、この仏説父母恩重経の現代語訳をかいつまみ紹介したいと思います。

『仏説父母恩重経』

 以下のように私(阿難)は聞いております。あるとき世尊(釈迦)は王舎城の郊外にある山の中に、菩薩・声聞の方々とともにおりました。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天人・人間・竜神・鬼神などが、法を聞こうと集まり、一心に仏を囲み、瞬きもせず、尊いお顔を仰ぎ見つめておりました。
 このとき世尊はすぐさま法を説いて仰せられました。
「一切の善男子、善女子よ、父には慈しみの恩があり、母には自分を忘れ育てていただいた恩があります。そのわけは、人がこの世に生まれるのには、前世からの業を原因として、父母を縁とします。父がいなければ生まれません。母がなければ育ちません。ここをもって生気を父の胤(たね)にうけ、形を母の胎(はら)に宿します。この因縁がありますから、憐れみ深い母が子を思うことは、世の中で比べるものなく、その恩は形になる前から始まっているのです。
 はじめに胎の中に子を宿してから、母親は十月を経る間に、進むもとどまるも、座っても臥しても、子とともに苦しみ、悩みます。苦しみ・悩みに休みはなく、好きな食べ物・飲み物・衣服を得ても、愛欲の想いがおこりません。ただ一心に安らかなお産をしたいと願っています。
 月満ち日が足りて、出産のときに至ると、業風(むくいの風)がふいてお産を促し、骨節がことごとく痛み、その苦しみには耐えられません。父も身と心がおののき恐れて、母と子とを憂い、諸々の親族もみなことごとく苦しみ悩みます。無事に生まれると父母の喜びは限りなく、あたかも貧しい女性が如意の珠を得たようなものであります。その子が、産声をを上げますと、母も初めてこの世に生まれ出たようなものであります。
 それから、子は母の懐を寝所となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情けを生命(いのち)として育っていきます。飢えたとき、食べ物を求めるのに、母からでなければ食べず、渇いたとき、飲み物を求めるのに母からでなければ飲まず、寒いとき、服を重ね加えるのに、母からでなければ着ず、暑いとき、衣を脱ぎさるのに、母によってでなければ脱ぎません。
 母は飢えているさなかでも、口に含んだものを出して子に食べさせ、母は寒さに苦しんでいるときでも、着ているものを脱いで子に着せます。母でなければ養ってもらわず、母でなければ育ててもらわず、子が乳母車を離れるようになると目が離せない母は、両手の爪の中に子の穢れものをとって始末してしまいます。推し量ると、人が母の乳を飲むこと、180石(32400 リットル)といいます。父母の恩の重いことは、天の極まりがないようなものであります。
 
次節は次回に・・・
 
            
大平山不動寺住職   新田 光照
| 住職:新田光照のコラム | 14:35 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
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